
「ニッポニア・ニッポン」という学名を持つトキは日本を代表する鳥のひとつ。その淡く優しい桃色の羽は古くから「朱鷺色(ときいろ)」と呼ばれ、『万葉集』や『日本書紀』にもトキにまつわる歌や記述が残されている。かつては人の暮らしのそばで生きていたトキだが、明治以降、羽や肉を得るための乱獲や環境破壊によりその数は激減。2003年に佐渡島で保護されていた最後の1羽が死亡したことにより、日本産のトキは絶滅した。それから22年、今、佐渡島では再び里山の空をトキが舞っている。なぜ佐渡島はトキの野生復帰を実現できたのか。島全体の環境を整えることでトキとの共存を目指す取組みを紹介する。
[連載概要]
気候変動は、私たちの暮らしや自然環境に深く影響を与える課題です。
チューリッヒ保険会社は、気候変動に対し、より多くの人々とともに考え、行動するきっかけをつくりたいと考えています。
本連載は、その想いをもとに、YouTubeチャンネル『チューリッヒ保険会社のGreen
Music』で公開される作品の背景にある自然環境やその土地の取組みを掘り下げ、持続可能な未来につながる手がかりになればと考え生まれました。作品では伝えきれないストーリーをお届けしていきます。
2008年、新潟県・佐渡島の空に27年ぶりにトキが舞った。江戸時代には日本全国に生息していたトキは、羽毛や食用の肉を目的とした乱獲や、餌場となる田んぼや農地での農薬使用のため生息数が激減。1970年に本州最後の個体が捕獲、1981年には佐渡島に残された最後の5羽すべてが捕獲され人工飼育下に移されたが、2003年に最後の1羽となる「キン」が死亡したことで、日本産のトキは絶滅した。
一方で、佐渡島では1999年中国から贈呈されたトキのつがいを飼育し、人工繁殖に成功。2008年に初めてトキを野生に戻す放鳥が行われた。その後も順調に繁殖が進み、2024年の秋までに31回、のべ531羽を野生に戻してきた。野生で繁殖する事例も増え、今では島内でその姿を見ることも珍しくなくなった。一度絶滅した動物を野生復帰させることは、簡単なことではない。それを見事に実現した佐渡島では、どんな取組みが行われてきたのか。トキの保護と、それを守るための環境づくりを行なっている佐渡市農林水産部農業政策課の土屋智起さんに聞いた。
「佐渡島では1967年から『新潟県トキ保護センター(現:佐渡トキ保護センター)』で飼育繁殖と生態の研究を行なってきました。放鳥候補となるトキは『野生復帰ステーション』に移し、そこで野生に帰るための順化訓練を行います。広いケージの中には田んぼがあって、餌となる生きたドジョウが放してあります。その中で飛ぶ練習や、生獲物をとる経験を積んで、3ヵ月ほどしたら、いよいよ放鳥となります。2012年には野生に帰ったトキ同士が繁殖し、ヒナの誕生が確認されました」
野生下では、じつに36年ぶりとなるトキの誕生だった。

飼育施設で人工繁殖したトキを野生に戻す放鳥。飼育下での環境に慣れすぎると野生で生きていくのが難しくなるため、1歳前後で放鳥できるように訓練を行なっている。

佐渡市が管理・運営する「トキの森公園」内にある「トキふれあいプラザ」では自然に近い状態で飼育しているトキを一般公開している。
トキを甦らせるために立ち上がった人々
人工繁殖し、飼育することはできたとしても、いざ野生に戻すとなると、トキが自然の中で暮らしていくための環境が整っていなければ生きてはいけない。
「トキが絶滅した最も大きな要因として挙げられるのは、田んぼでの農薬使用です。トキはドジョウやタニシなど、主に水辺環境にいる小さな生きものを食べていて、田んぼは最も大切な餌場です。戦後、田んぼで大量に農薬が使われるようになったことで生きものが消え、それとともにトキも数を減らしていきました。トキが野生で生きていくためには、健やかな田んぼが欠かせないのです」
佐渡島では2008年より「生きものを育む農法」を打ち出し、環境保全型農業への転換を始めた。その主な取組みが、「トキ認証米制度」だ。トキが餌とする水辺の生きものを守る方法で作られた米に認証を与え、「朱鷺と暮らす郷」と名付けたブランド米として販売することで、環境を守りながら農家の暮らしも支えている。
認証条件の基本項目は以下の3つ。
・化学合成農薬と化学肥料の使用量を基準の半分以下にすること
・年に2回、田んぼや畦の生きもの調査を行うこと
・畦に除草剤をまかないこと
それに加えて、以下の5項目の中から1つ以上を実施することが求められる。
・田んぼの脇に水路をつくる
・冬の間も田んぼに水をはる
・田んぼと水路の間に生きものが行き来できる魚道をつくる
・田んぼの横にビオトープをつくる
・完全無農薬、無化学肥料で栽培する
「最初は取り組む農家が少なかったのですが、放鳥が始まって、生活の近くでトキの姿が見られるようになると『よし、自分もやってみるか!』という農家さんが増えてきました。農薬を減らすことで害虫が増えるのではないかという懸念もありましたが、減農薬の結果、害虫を食べる生きものも増えたことで、害虫被害は深刻化していません。トキの最後の生息地となった佐渡島では、多くの住民が長年、野生復帰を願ってきましたので、住民のみなさんのそうした思いも環境保全型農業への転換を後押ししてくれたと感じています」
現在、島内の主食用水稲作付面積のうち2割ほどで認証米の栽培が行われている。「生きものを育む農法」を実践する農家には補助金を交付し、販売価格も通常の米より割高に設定することで、農家の収入も以前より向上した。2004年頃から2007年まで約5000tが売れ残っていた佐渡島の米は、認証制度が始まった2008年以降、売れ残りはゼロに。“環境にやさしい”米は、農家にとってもやさしいものになりうるのだということがわかってきた。

「生きものを育む農法」の認証基準のひとつとなる魚道の設置。田んぼと水路の間に魚や昆虫が行き来できる道を作ることで、田んぼの生物多様性を保つ。

さまざまな生きものがいる田んぼは、トキにとって欠かせないもの。近年は田んぼで餌をとるトキの姿がよく見られるようになり、野生下での繁殖も順調に進んでいる。
トキも人も健やかに暮らせる土地に
農業を通してトキをはじめとした生きものと人間の暮らし、両方を健やかなものにしていこうという動きは、確実に自然環境や人々の意識に変化をもたらしている。
佐渡島では認証米の栽培に取り組む農家を対象にアンケート調査を行っている。「田んぼにいる生きものを意識するようになったか?」という質問に対して、2011年から2016年の間に「そう思う」という回答が約10%増え、「ややそう思う」も含めると80%を超えた。また「田んぼにいる生きものが増えたか?」という質問に対しても70%ほどの人が「増えていると思う」と回答した。
私は佐渡島で生まれ育ちましたが、子どもの頃に比べて田んぼにいる生きものが格段に増えたと実感しています。サワガニやエビ、カメ、小魚などはあまり見かけませんでしたから、大きな変化です。『生きものを育む農法』が進められたことにより、農家の生きものに対する意識が高まり、それが生きものと共生する社会づくりにつながってきたと感じています。」
現在、佐渡島では島内すべての小中学校の給食に認証米を使っている。今後は無農薬・無化学肥料栽培米に転換することも視野に入れ、環境保護と食の安全、地産地消を同時に行うことを目指している。
「トキが野生に戻ってから改めてわかったのは、彼らは“里山の鳥”、つまり人間の生活環境のそばで暮らす鳥だということでした。餌場となる田んぼは、人が手を入れて管理することで多くの生きものが集まってきます。繁殖地となる林も人が適切に手を入れなければ、伸び放題になった枝が邪魔で営巣ができません。
トキを守るために里山環境を整えているのかと質問されることがありますが、決してそのためだけではありません。そうした活動は、そもそも人間が健やかに暮らしていくために欠かせないことです。トキが生きていける里山環境があるということは、人間もまた生きていけるということ。トキは、あらゆる命が当たり前に生きられる環境の指標となるもの。そんな環境が将来にわたって続いていくよう、これからも取り組んでいきたいと思っています」

「生きものを育む農法」で作られたブランド米「朱鷺と暮らす郷」は、甘味があり、冷めてもおいしいと評判に。1kgあたり1円がトキの保護活動に寄付される活動も行なっている。
小林百合子(こばやし・ゆりこ)
出版社勤務を経て独立。自然や野生動物などをテーマに本の執筆や雑誌の編集などを手掛ける。著書に『山小屋の灯』『いきもの人生相談室』(ともに山と溪谷社)など。現在、北海道・弟子屈町に暮らしながら、北の自然についての発信も行う。
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Text:Yuriko Kobayashi