アイヌ語で「地の果て」を意味する「シリエトク」にその名が由来するといわれる知床。北海道本土の最北東端、海に突き出すようにしてある知床半島は、日本でも数少ない豊かな自然が残る場所だ。冬の知床の象徴といえば極北からやってくる流氷。それらが知床の自然を形作る上でとても重要な役割を果たしていると知っている人は、もしかしたら少ないかもしれない。知床では近年、気候変動などの影響で流氷の量が減少し、少しずつ生態系に変化を及ぼしつつある。その現状と、知床の環境を守るべく活動する人を追った。
[連載概要]
気候変動は、私たちの暮らしや自然環境に深く影響を与える課題です。
チューリッヒ保険会社は、気候変動に対し、より多くの人々とともに考え、行動するきっかけをつくりたいと考えています。
本連載は、その想いをもとに、YouTubeチャンネル『チューリッヒ保険会社のGreen
Music』で公開される作品の背景にある自然環境やその土地の取組みを掘り下げ、持続可能な未来につながる手がかりになればと考え生まれました。作品では伝えきれないストーリーをお届けしていきます。
毎年1月の終わり頃、知床半島の海には流氷が押し寄せてくる。海を埋め尽くす氷塊は遥か沖まで続き、まるで海が雪原になったよう。その美しさはもちろんだが、この流氷こそが知床の豊かな自然を作る何より大切な存在なのだという。知床で環境教育や普及啓発、野生生物の保護管理・調査研究、森づくりなどを行う公益財団法人知床財団の米田紗衣さんが教えてくれた。
「流氷の中にはアイスアルジーという藻の仲間が含まれています。春、氷が溶ける頃になると海の中に放出されて、光合成しながら大繁殖するんです。それを動物プランクトンが食べて、今度はそれを小魚が食べて、シャチやクジラ、アザラシ、オオワシやオジロワシなどの猛禽類といった大型の生物へと栄養が受け渡されていく。流氷は知床の野生動物たちの命を支える、大きな循環の始まりとなるものなのです」
流氷によって知床沿岸にもたらされる豊かな栄養分を、その身をもって森に届けてくれる生き物がいる。カラフトマスなどに代表されるサケたちだ。
「知床の川で生まれたサケは海に出て大きく成長し、産卵時期になると故郷の川へと戻ってきます。それを待ち構えているのがヒグマ。サケを食べたヒグマは森の中でフンをしますが、それが木々を育てる養分となり、森を豊かにします。産卵後、その一生を終えたサケもまたキタキツネや猛禽類の命の糧となり、最後には森に還っていきます。知床の川に毎年多くのサケが遡上するのも、流氷が育む豊かな海のおかげなのです」
「海の王者」と言われるシャチ。知床の羅臼沖では春から夏にかけてその姿を見ることができる。シャチもまた流氷が育む豊かな海に支えられている。
翼を広げると2m以上にもなる大型の猛禽オオワシは、流氷の上でじっと海面を見ながら魚を探す。彼らにとっても流氷は大切な狩りの場なのだ。
流氷の減少が生態系に異変をもたらす?
ところが今、知床の流氷に変化が起きている。気候変動などの影響により流氷が減少しているというのだ。
「知床財団では知床にくる流氷の観測を1996年から続けています。2014年から開始した定点観測のデータによると、流氷の氷量(※1)自体が年々減っていて、密接度(※2)も徐々に低下しています」
気象庁の発表によると、2011年から2020年にかけて、北極域の年平均海氷面積は少なくとも1850年以降で最小規模に達した(※3)といわれている。世界規模で進む気候変動は、知床の流氷の減少と無関係ではない。
「かつて記録された流氷の映像を見ると、今では考えられないような巨大な氷塊がそびえ立っていて驚きます。地元の漁師さんは、かつて流氷がやってきたときには、氷と氷がぶつかるギーギーという音が毎晩のようにして眠れなかったと言っていました。そんなことからも流氷は確実に減っているんだなと実感します」
気候変動による流氷の減少がこのまま進行すると、知床の自然はどうなってしまうのだろうか。
「自然は多くの生き物が繋がって成り立っています。そのどこかにほころびができれば、生態系のバランスが崩れていくかもしれません。知床沿岸の海水温は上昇傾向にあります。それが直接的な原因かは明らかではありませんが、近年、知床に遡上するカラフトマスが減り、2023年には調査を開始した2012年以降、最も少なくなりました。どんぐりやハイマツの実といったヒグマが食べる木の実も凶作で、食べ物にありつけず、痩せ細ってしまったヒグマも多くいました」
知床半島の東西に位置する斜里町と羅臼町では2023年度にヒグマの目撃件数が大幅に増えた。人が暮らすエリアに出没し、やむを得ず捕獲された頭数は過去最多を更新した。
(※1)ある海域での全海面に対する氷の部分の面積比率
(※2)ある氷域の中の氷の分布状態が、ばらばらになっているかつまっているか、その平均の密集程度を十分位法で表したもの
(※3)公益財団法人
知床財団会報誌「SEEDS」2023年冬号より
知床の車道に現れた、げっそりと痩せたヒグマ。サケや木の実などが減り、森で食べるものがなくなると、やむをえず人間が暮らす地域に出てきてしまうこともある。
自然を体感することで、見えてくるものがある
知床財団では幅広い分野で知床の自然を「知り、守り、伝える」活動を行なっている。中でも力を入れるのがヒグマとの共存だ。
「知床半島には2021年度時点では400〜500頭のヒグマが生息すると考えられていて、世界有数の生息密度です。近年は市街地に出没するヒグマが増え、住民の安全を確保するための捕獲も行われています。けれどヒグマもまた生態系の中で重要な役割を果たす生き物です。 “殺すのはかわいそう”という声と、“みんな捕獲してしまえばいい”という声の両方が寄せられますが、どちらか一方では問題は解決できません。ヒグマと人間がどうしたら一緒に生きていけるのか、その方法みんなで考えていくことが重要です」
かつて知床にはエゾオオカミが生息していた。今、エゾシカが増え過ぎているのは、シカを狩るオオカミの存在がなくなったからだという説もある。「ヒグマがいなくなっても誰も困らない」と思うのは、人間中心の視点かもしれない。
「冬に流氷がくると、その上でアザラシが子育てをします。春にはヒグマが冬眠から目覚め、秋にはサケが川に戻ってくる。季節の移ろいとともに生き物たちの営みがあって、同じ季節を私たちも一緒に過ごします。知床で暮らしていると、人間も他の生き物たちと同じ自然の中で生きているんだなということがわかってきます。一見別々の問題に見えることでも、大きな視点で見ると全てが繋がって、影響を及ぼしあっていることがわかります。誰がどう見てもおかしいという変化が起きてしまってからでは手の施しようがない。だからこそ、一人ひとりが考え、暮らしの中でできることを実践していくことが大切なのです。」と米田さん。そして最後にこう付け加えた。
「気候変動など地球規模の問題について考えるのはピンとこないかもしれませんが、ぜひ知床の地に足を運んで実際の自然を体感していただけたらと思います。心から美しいと感激した自然が失われるかもしれない。そんな気づきが何か行動を起こすきっかけになれば、とてもうれしいですね」
減少傾向にある知床の流氷。かつては氷山のように盛り上がっていたこともあったが、近年はそこまでの量が見られることはほとんどない。
小林百合子
編集者・ライター。出版社勤務を経て独立。自然や野生動物などをテーマに本の執筆や雑誌の編集などを手掛ける。著書に『山小屋の灯』『いきもの人生相談室』(ともに山と溪谷社)など。現在、知床に近い道東・弟子屈町に暮らしながら、北の自然についての発信も行う。
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雄大な流氷の神秘に満たされるチルBGM - 森田カズヤ
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Photo:Shiretoko Nature Foundation Text:Yuriko Kobayashi